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「沖縄クリエイティブを拡張する」がGYOKUのビジョン
久田さんがクリエイターを志したきっかけは。
久田:高校時代に出会った先輩がきっかけで、まさに兄貴的存在の人でした。博報堂に勤めた後、沖縄に戻ってセレクトショップをやっていて、政治や文化、ストリートカルチャーにも詳しく、デザインや音楽、映画まで色々なことを教えてくれたんです。本だったら「文藝春秋から裏本まで読め」とか(笑)。だけど言葉だけではなくちゃんと自分でも実践する。かっこいいところも悪いところもたくさん、今でも色々と学ばせてもらっている先輩ですね。
うちは小さな建築会社で、父と母がとても苦労しているのを子どもながらに感じていたんですね。そんな背景もあって、慕っていた先輩が働いていた広告業界なら面白く働きながら稼げるんじゃないかと思ったんです。
僕は芸大や専門学校には行けなかったんですが、先輩からの助言もあり職業能力開発校のメディアアート科に行きました。そこは卒業してもデザイン業界に行く人が少ないところで、業界への就職も厳しい状況でしたが、自ら飛び込みで広告代理店や制作会社をまわり、お会いできないところには郵送や電話したりと、かなり踏み込んだ就職活動をしていました。そこで沖縄の総合広告会社に運良く面接の機会をいただいて、アシスタントデザイナーとして働き始めたのがキャリアのスタートですね。
GYOKUがどんな会社なのか、教えていただけますか。
久田:「沖縄のクリエイティブを拡張する」をビジョンに、デジタル領域を主軸にしているクリエイティブカンパニーです。沖縄には大手代理店の事業所や子会社もありますが、沖縄の人間が立ち上げたクリエイティブ系で、東京案件中心にやっている会社は数少ないかと思います。

また、本年から「共創共栄」という経営理念を掲げていまして、お客さんや自社のスタッフと共につくり成長し、共に豊かになっていく場にしたいと思っています。GYOKUの社名には、クリエイティブを極めたい「極」と、琉球王朝の「玉座・王冠」、キラキラ輝く玉石の「玉」といった意味や想いが込められていて、ロゴには、「個」の重なりがシナジーを発揮し世の中に「◎」を提供していくといった意味が込められています。「関わる全ての人にとって良い形◎になるように」「人や会社の重なりで世の中に◎を提供していく」「依頼者・GYOKU・社員・社員の家族、三方四方も◎」という想いも込めており、経営理念の「共創共栄」はこのロゴの意味も重ねています。

GYOKUでは国内の大手広告代理店からの仕事を請けつつ、スッパイマンやブルーシール、沖縄銀行といった「沖縄の会社」とも直接取引をしていて、ブランディングやパッケージまわりのデザイン、社名やステートメントをつくることもあります。東京の制作会社や県外のクライアントから直接仕事を受けてやることもあるので、そういう意味では粒度の違う仕事ができている会社だと思います。
沖縄と琉球のルーツが背景にあるGYOKUのクリエイティブ
GYOKUさんの代表的なお仕事を教えてください。まず「黒い欲望」から。

久田:「黒い欲望」は塩せんべいにチョコを染み込ませたお菓子です。沖縄にはファッションキャンディという土産菓子とチョコレートに強い老舗企業があるんですが、当時はコロナ禍で沖縄の観光全体の売上が落ちていて、メーカーとしても新しい手を打たないといけない状況でした。また、地元の若者の認知が低くなっていたことも重なり、観光商品ではなくもう一度県民に愛してもらえる「日常商品」を、と考えてメーカーと開発したお菓子です。
メーカーが夏でも売れるチョコを考えたところ「しみチョコ」が挙がり、そこに何を染み込ませるか試していってたどり着いたのが「沖縄の塩せんべい」。チョコの甘さと塩せんべいの塩味、食感までぴったりマッチしたんです。また、塩せんべいって戦後、米より小麦が手に入りやすかった時代に生まれた、歴史のあるお菓子なんですね。商店が減り、塩せんべい屋さんもどんどん無くなってきている中で、塩せんべいを原料にすれば塩せんべい屋さんを救えるかも、と。しかも、割れたせんべいをそのまま活かせばフードロスにもなる。県民に愛されるもの、沖縄戦後の歴史、フードロス、塩せんべい屋さんの現状、複数の背景とご縁から生まれたのが「黒い欲望」だったんです。

成果はどうでしたか。
久田:ファッションキャンディさんが営業努力を重ねてくれたおかげもあって、発売後すぐ沖縄のドン・キホーテで一番売れたお菓子になりました。商品特性を鑑みて「ドン・キホーテで売上実績を作る」ことに注力したところ、ありがたいことに話題になり、そこから色々と引き合いをいただけるようになったんです。一時期は関東のキオスクにも入っていたそうです。商品企画から販路・販売までクライアントと一緒に、戦略的に考えていった仕事でしたね。
GYOKUさんは沖縄にある小学校のお仕事もされていますね。

久田:これは来年で創立120年を迎える「宜野湾市立普天間小学校」の建替え事業で、かみもり設計の石川さんからお声がけいただき、普天間出身のアーティスト大村郁乃さんと全校生徒&先生、総勢600人以上で吹き抜け11メートルの大きな「ガジュマルの壁画」を作りました。普天間小には戦禍を乗り越えて残った大きなガジュマルの木々が重なるように存在していて、近代の沖縄の歴史をつぶさに見ながら、地域を見守ってきた、小学校のシンボルツリーなんですね。だから何かしらのかたちで残しておくべきだと。
最初は僕が壁画制作をする予定でしたが、ふと「普天間出身の人がやったほうが意味があるんじゃないか?」と。「学校の子どもたちの一生に一度の思い出になるといいよね」という石川さんの提案もあり、コロナ禍でかなり制限された中でしたが、生徒たちや学校全体を巻き込んだ大きなプロジェクトになりました。世代が変わっていっても続いていく尊いものになったかなと。

「GIVE ME CHOCOLATE!」も沖縄の歴史が背景にあるプロジェクトですよね。

久田:「ギブ・ミー・チョコレート」というのは、戦後、食べるものがない沖縄の子どもたちがアメリカ兵に「ギブ・ミー・チョコレート」と声をかけ、もらったお菓子を家族で食べ分けていた、という話があるんです。かわいそうなエピソードに聞こえるかもしれませんが、それは自分たちのおじいさんおばあさん、おじさんおばさん世代が戦禍の沖縄を必死になって生きた「沖縄の歴史」でもある。だからこれって本当は「困難な逆境でも折れず、しなやかに必死で生きてきた人たちの話」なのではないかと思ったんです。
時代を作ってきた先人たちのように今の自分たちは本気で生きているのか?と問いかけるようなブランドを、前述のファッションキャンディさんと沖縄のアパレルメーカーである「nana san maru(ナナサンマル)」さんと立ち上げたのが、このプロジェクトなんです。この言葉の意味を噛み締めつつも「意味を刷新」して、共感してもらえる商品をつくろう!ということで「GIVE ME CHOCOLATE!」という名前になりました。
GYOKUさんが関わっている沖縄のお仕事には、いつも沖縄の歴史、未来、関わるひとたちのことが考えられていて、どこか視座の高さを感じます。
久田:沖縄の企業であれば、担当される方もやっぱり、沖縄を愛しているんですよね。商品に使われる素材も沖縄のものだったりするので、クリエイティブにも自然と「沖縄」という視点が入ってくるのかな、と。僕自身、沖縄や琉球のことをとても大切に思っていますが、仕事に関しては「クライアントにも、その先にいるお客さんにも喜んでもらいたい」「一緒に作る仲間とより良いものを作りたい」という想いが常にあります。お客さんのことを考えているクライアントと一緒に考えて、意見を出し合って、みんなで一緒につくりあげていくことが、結果的に沖縄という土地や関わる人たちを視野に入れたクリエイティブになっていくのだと思います。
構造変化が起こらないと「沖縄の経済」にはならない
沖縄における事業の課題はありますか。
久田:沖縄経済の三本柱は、観光、基地、公共事業と言われています。観光立県でもあり、観光客は年間1000万人以上で、ハワイの観光客数とほぼ同等。しかし、様々な要因が重なり、沖縄に落ちるお金はハワイよりかなり下回っているのが現状です。
これはザル経済とも言われているのですが、沖縄で生まれた収益が、沖縄に進出した県外企業に流出していて、利益が地域に落ちていないことがひとつの原因とされています。国から補助金をもらっても沖縄の企業で請負うことができず、ゼネコンの下請けとして請けていたり。県外資本の沖縄進出や、オリオンビールをはじめ歴史ある沖縄の企業が県外や国外資本に買われたりなど、経済面ではそういった課題が大きいですね。
沖縄は他県と違って戦禍の影響から、戦後や本土復帰後スタートの事業が多い(=100年企業が少ない)ことも影響していて、初代や二代目からの事業継承のタイミングで県外の会社に買われたりといった話もよく耳にします。
沖縄は人口流出が他県に比べても少ないそうですが。
久田:沖縄も他県と同じく若者や働き手の県外転出が多いのですが、沖縄への移住者も同じくらい多く、流入だけで毎年2〜3万人いるそうです。若者の働き手不足とあわせて、沖縄では高齢者が増えて健康寿命が短くなっており、働ける人が慢性的に不足しているのも課題ですね。逆に60歳以上の働ける高齢者と外国人労働者はかなり増えてきている印象です。
そういった課題に対して久田さんが思ってらっしゃることはありますか。
久田:簡単に言ってしまえば「労働生産性や競争力を上げること」に集約されると思います。沖縄の人や会社でやれることが少しずつ増えてきているとはいえ、どこかで「構造変化」を起こさないと自分たちの経済にはならない、とみんなが感じています。建築であれば大手ゼネコンの建設会社が一次で請けて、沖縄の建築会社が二次三次で請ける、といった構造の問題ですね。
観光においては、日本人観光客もインバウンドも毎年たくさん来ています。日本人向けのサービスはもちろん、インバウンド向けサービスの受け皿ができているともっと潤うはずですが、その受け皿が弱いかもしれませんね。ハワイだったら観光税や地元民割をハワイ人とそれ以外の人で分けていて、地元の人(内需)も楽しんでもらえるように、そういうこと(観光税や地元民割)を沖縄でやってみるとか。あとは体験などの「コト消費」系サービスをお金にしていく方法ができると。そこに沖縄のクリエイターも携わっていけるといいですね。
「ADCやCCのない沖縄にクリエイターズクラブを!」眞木準さんと熱量高いメンバーで立ち上げた「ocy(オキー)」

沖縄は他県にあるADC(アートディレクターズクラブ)やCC(コピーライターズクラブ)と違う、独自のクリエイターズクラブがあるそうですね。
久田:「ocy(Okinawa Creators Yui/オキー)」は沖縄のクリエイター同士の交流とクリエイティブワークの向上を目的としたクリエイターズクラブです。それまで沖縄には沖縄広告協会という団体の広告賞はあったのですが、それはクリエイターというよりクライアント企業が表彰されるといったもので、ADCやCCのようなクリエイターズクラブはなかった。コピーライターやデザイナーの数も首都圏に比べると絶対数が少なかったんです。
それが、宣伝会議50周年記念において開設された「コピーライター養成講座」沖縄教室が発端となって、コピーライターの眞木準さんが「沖縄にクリエイターズクラブがないなら作ろうよ」と提言してくださって。職種関係なくクリエイティブを通して沖縄を面白くしたい人が集まる場にしようと、熱量が高いメンバー20名くらいで立ち上げたのが「ocy」です。主な活動内容としては、年に一度の広告賞、クリエイター交流会、学生さん向けの勉強会など、ゆるりと活動の輪を広げています。発足してもう18年になりますね。

ocyができたことによって、沖縄のクリエイティブに何か変化はありましたか。
久田:シンプルな話ですが、クリエイティブに関わる人や広告業界の知り合いがたくさん増えたことに尽きますね。それぞれ繋がっているクリエイターを紹介しあったり、面白いものを作っている人に話を聞いてみたり。デザインの専門学校生や若手クリエイターとの関わりもできましたし、ocyを通して知ったクリエイターに仕事をお願いすることもあります。そういうちょっとしたつながりが偶然を呼んで、相乗効果でどんどん面白い展開になっていったんです。
久田さんの場合はGYOKUの立ち上げにも繋がっていますよね。
久田:僕の場合は、GUILD OKINAWA代表の仲本さんと知り合って、一緒に「琉Q(ルキュー)」というプロジェクトに関わるようになったのが大きかったですね。このとき僕が当時いた広告会社から仲本さんがいた(当時の)会社に移ったのですが、まわりからは「なんで県内で一番の代理店からその代理店に移るのか」と言われていたんです(笑)。

「琉Q」は、沖縄産の素材を使った沖縄の食材と文化を伝えるプロダクトブランドであり、障がい者就労支援ともつながっているプロジェクトです。ここでいわゆるクライアントワークとは違う、ブランドの立ち上げや商品企画から、原料調達、各所との交渉、販路開拓、販売活動、お金の流れまで、すべてに「自分ごと」として関わることができた。この経験が個人的には大きかったですね。その後、仲本さんとGUILD OKINAWAをつくることにもなったんです。

GUILD OKINAWAやocyを通じて、PARTYの伊藤直樹さんと出会ったのも大きかったですね。交流を続ける中で伊藤さんを通じてPARTYの中村洋基さんとも出会うことができて、それがGYOKUの立ち上げにつながっていくんです。これもやっぱりocyに関わっていたおかげですね。でもocy立ち上げメンバーはみんな、当時から並々ならぬ熱意を持っていましたから。だから僕もみんなもそれぞれが、今でも活躍できているんだと思います。
専門学校生とのつながりも増えたそうですね。
久田:沖縄ではクリエイティブ業界に入る人が年々少なくなっているんです。沖縄の企業や代理店が専門学校生にアプローチできておらず、彼らも沖縄の企業やクリエイターを知らないまま、在学中のうちに県外資本に持っていかれているのが現状ですが、それでも地道に現場の僕たちが「沖縄でもクリエイティブの仕事ができる」と伝えていくことが大事かなと。
例えば学校で、ocy賞を受賞したクリエイターが学生に作品のフィードバックをする授業をさせてもらったり、現場の状況を鑑みて学校のカリキュラムや施策の提言をさせてもらったりしています。学生の選択肢が広がり、沖縄の企業と互いにつながりができていくといいなと思いながらやっていますね。
沖縄のクリエイターには、それぞれに「自分の哲学」がある
沖縄のクリエイターで気になっている方を教えてください。
久田:たくさんいて紹介しきれないのですが(笑)、まず、Masonryのデザイナーであるモダンさんこと村山盛康さん(https://www.instagram.com/modanrls/)。ストリートカルチャーに関わりながら、ローカルブランドやPVから企業の案件までやっている人です。最近の仕事で代表的なのが「琉球藍研究所」のロゴデザインで、このロゴに至った考え方も、このロゴが作れる職人的技術もすばらしい。本質を捉えながらものを作れる人ですね。
本質的な人ということで言えば、設計士のLuft真喜志奈美さんもそうです。話を聞いていてもその感性に惹きつけられます。お願いできたのが奇跡だったのですが、普天間小学校プロジェクトの内装や、GYOKUのオフィスと什器の設計、照明のコーディネートまでやっていただきました。

空間、家具、プロダクトまで、多岐にわたるデザインを展開している。
渡真利泰洋さんは宮古島出身の料理人で、「Joël Robuchon」などパリの名店でも働いていた人なんですが、現在は宮古島に帰ってきてご自身のレストラン開業の準備をしています。沖縄で失われつつある食文化を再興し、新たなスタイル「琉球ガストロノミー」の確立を目指していて、なぜフランス料理からガストロノミーへ、そしてなぜ沖縄に帰ってきてお店をやることにしたのか。お会いして間もないので、一度深くお話をしてみたい人ですね。

ただ今独立開業準備中。
「GIVE ME CHOCOLATE!」でご一緒したnana san maruさん。代表の島袋零二さんはデニムでドレスを作ってみたり、ジーンズのリベットを米軍が使っていた薬莢でつくったりとか、職人気質でありながら発想が飛び抜けている人。依頼者のリクエストに丁寧に応える姿勢も尊敬できます。元々はプロの格闘家で、ケガをきっかけに引退してしまったんですが、その死生観も含めて、人間味に溢れる人なんですよね。

最後は、全員が沖縄出身の映像制作チームFULLER(フラー)。フラーって沖縄の方言で「馬鹿」って意味なんです(笑)。代表のベス男くんがインフルエンサーのマネジメントをしていたり、SNS動画の企画・運用や、動画の制作などをしているチームなんですが、彼らは従来の広告クリエイターが使わないような突飛なアイディアから広告を作るんです。いい意味で枠に収まっていない「違和感」が面白い人たちですね。

久田さんが興味がある方たちはみなさん、その人の生き様や哲学がありますね。
久田:作っているものも当然かっこいいんですが、その人の「存在感」が好きなんです。領域は違ってもそれぞれに自分の哲学があって、作るもののバックボーンに生き方が見える。そこに惹かれますね。
自分に来ている仕事は、自分で面白くすることができる
沖縄におけるクリエイティブの現状を聞かせてください。
久田:沖縄では島の経済規模に比べて、広告代理店と印刷会社の数が多いように感じますね。逆にデザイン系の制作会社は少ない。理由としては、沖縄では広告代理店が一次受けでほぼフィニッシュや納品までやっていることが多いんですね。印刷会社も自社でTVやラジオ、新聞などマスの媒体権を持っているため、印刷会社と広告代理店が競合している。下請けの制作会社も制作単価の低さから人を抱えられず、結果的に能力の高いフリーランスのデザイナーが多くなってきているように思います。
ただ、最近では小規模の制作会社やフリーのクリエイターが、県内外のブランディング系の仕事やウェブ、動画などをクライアントと一気通関でやることも増えていて、そこには可能性も感じますね。
沖縄のクリエイティブが今後どうなっていくといいと思いますか。
久田:クライアントの課題を解決するのは当然として、やっぱり、ただものをつくるだけではなく、企業の経営や事業にまでコミットできて、かつ創造的なクリエイティブができることが望ましいかなと。そうなるとクライアントからも重宝され、クリエイターの価値もあがってくると思うんです。
二次請けだと、どうしてもコミットができない中でものをつくることになりますよね。やはりインフラ自体を変えていく必要があるというか。
久田:そうですね。県内の中小企業とのお仕事であれば、経営者や決済者に対してダイレクトにコミットできるといいですよね。広告費を自ら捻出できる企業へのアプローチはしなくてもいいと思うんです。そうではなく、小中規模のクライアントに「クリエイターが経営感覚を持ってクリエイティブでコミットする」。そういう動きが広がってくるといいですね。
経営に対してお手伝いできることって、手を動かすデザイン以外のフェーズでもたくさんあると思うんです。商品開発でも手を動かすデザインって意外と最後のフェーズだったりしますから、広告と別のロジックを作って、お客さんと一緒に考えたり悩んだりしながら伴走できるといいのかな、と。
あと学生や若手の方にお伝えしたいのは、「自分に来ている仕事は、自分で面白くすることができる」ということ。代理店にいるケース、フリーで直接お客さんと関われるケースなど、それぞれの環境で、それぞれの方法で面白い仕事にできるんです。そこに早く気付いてくれたらいいのかな、と。沖縄は決裁者も近いわけですから。

経営に対してお手伝いできることはデザインの作業以外にもたくさんある、と久田さん。
沖縄というルーツ、歴史への誇りを持っています
久田さんにとって沖縄ってどんなところですか。
久田:10代から20代のときって、地元ではなくて外の世界に憧れていたんです。でも色々なことを知っていくと、芸術家の岡本太郎が沖縄という土地をリスペクトしていたり、ゴッホやゴーギャンの作品が日本の浮世絵や、沖縄文化からインスパイアされていたりと、自分が尊敬している人たちが、自分の住んでいる日本や沖縄をリスペクトしていることに気づくんです。
20代の頃にニューヨークに行ったんですが、現地の人と話をした際に「あなたの故郷のことを教えて」と言われたんですが、そのとき僕は何も答えられなかったんですね。向こうの人たちって、お母さんがメキシコ人とのハーフで、お父さんが移民系とのハーフで私はクォーターとか、多国籍だけど、各々がルーツや文化を大事にしている。その点、日本人は単一民族であり、自分の先祖をたどれるわけで、それって尊いことなんだな、と。ミッドタウンの真ん中には紀伊国屋があって、そこには夏目漱石の『こころ』や、島崎藤村があって、ニューヨークのみんなは知っているのに、自分は読んだことがない。海外の人のほうが日本を知っていて、何も知らない自分が恥ずかしくなったんです。そのとき外の世界もいいけど、自分のルーツや生まれた土地にもっと誇りを持ってもいいんじゃないか、と思ったんです。

これまでやってきた仕事でも、「琉Q」を通して沖縄の食材や食文化を学び、浦添市美術館の仕事では沖縄の漆の文化やその他の伝統工芸について学びました。沖縄には日本でも中国でもない「琉球」という国とその歴史があって、武器を持たずに大国と渡り合いながら、交易や貿易を通し、あらゆる国から集まってきた知恵で自分たちの文化を作ってきました。その後、第二次世界大戦で人口の4分の1の人たちが亡くなりましたが、そんな中でも自分たちのおじいちゃんおばあちゃんが命を繋いで今の沖縄を作ってきてくれた。沖縄には先祖崇拝という文化があるんですが、昔の人たちがどのように生きていたのかを聞いていると、今、この時代にこの土地にいる自分も頑張らなければ、と思うんです。

GYOKUさんは、県内だけではなく台湾や香港、アジアにも目を向けているそうですね。
久田:デジタルって「越境」ができる領域ですよね。沖縄も琉球王朝時代には越境して、交易や貿易を自分たちの手でやることで栄えてきたそうです。東南アジアから伝わってきた漆の文化や、朝鮮から伝わってきた焼き物の文化から琉球独自の文化が生まれて、貢物を中国に持っていって手に入れたものを今度は東南アジアに売ったり仕入れたりして帰ってくる。昔もそうやって越境していたんです。デジタルならもっと簡単に、越境した仕事ができるはずだ、と。
ちなみに、沖縄って台湾と結構交流があるんですよ。与那国と台湾も仲がいいですし。台湾には小琉球という島があって、沖縄は大琉球、台湾は小琉球と言われているぐらい、両国は近い。アジアともっとつながっていきたいですね。
GYOKUとして今後考えていることはありますか。
久田:県内と県外の仕事をどちらも増やしていきながら「沖縄クリエイティブ」を拡張していきたいです。今やってみたいのは、スタジオ事業。沖縄には東京のような大きいスタジオがないのですが、沖縄でロケがやりたいという話もよく聞くんです。また、スクール事業もやってみたいですし、AIを活用したクリエイティブ制作サービスの提供もやってみたいですね。
今は「パッサイ」という簡単にウェブサイトが作れる、中小企業向けサービスをやっています。作るのに数百万かかるサイトにお金を出せないお客さんもたくさんいる中、そこを年間10万程度で作ることができるというサービスです。

今だとノーコードツールでのサイト制作も増えてきていますが、自分ではつくれない中小企業もまた多い。ハローワークに求人を出しているけどウェブサイトがない会社もまだまだ多く、意外と経済損失が大きいインフラだと思うんです。小規模事業化補助金でもサイトの制作費用は限られていますし、クリエイターから見たら意外と社会課題なのではないかな、と。
GYOKUとしてはパッサイをはじめとして、自社クライアントに色々ヒアリングしていく中で、共通の課題が見えてきたらそれをサービス化して伴走していく。そういったサービスをどんどん作っていけたらいいなと思っています。

他メディアのインタビューでも「沖縄の会社で沖縄の人をもっと雇用できるようにして、県外や海外の仕事をできるようにしたい」とおっしゃっていましたね。
久田:雇用の面で言えば、GYOKUのスタッフをなるべく全員正社員にしていきたいですね。東京でも働きたいということであれば、大手代理店さんに常駐してもらうことも夢ではない。GYOKUにいながら東京での仕事にもチャレンジできるので、本人にとってもいい経験ができると思います。スタッフ本人がなりたい姿を一緒に考えて、自己実現をしてもらいながらGYOKUも一緒に成長できる、そんな会社になるといいなと思っています。
では、最後に。久田さんが気になるクリエイターはみな人生の哲学があると思うのですが、久田さんご自身には何か哲学のようなものはあるんですか。
久田:確かに、気になるクリエイターさんはみんな「自分の軸」や「らしさ」を持って、ものづくりで誰かを感動させている人たちですね。僕自身そういった方々と深く関わっていく中で「自分とは何なのか」「何のために生まれてきたのか」といったことを考えるようになってきているのかもしれません。
そうですね、最終的な答えはまだ出ていませんが、現時点の答えであれば「常にハッピーでありたい」かな。その上で、感謝を忘れずに、困難な道でも諦めず、執着には囚われないこと。そして、「あなたも、私も、みんなも◎」という想いをこれからも大切にしていけたら、そう思っています。

おわりです!
GYOKUさんのインタビュー、これにて終了です。いかがでしたでしょうか。
今回印象に残ったのは、GYOKUさんの関わる沖縄のプロジェクトには、沖縄の歴史や文脈を伴ったものが多かったということ。「黒い欲望」なら塩せんべいという沖縄の歴史、塩せんべい屋さんを救うこと、フードロス。「GIVE ME CHOCOLATE!」にも戦後のエピソードをポジティブにトレースしなおしていくような想いを感じました。
しかし、久田さんからすれば、クライアントと一緒に考えて、その先のお客さんのことを考えつくせば辿り着く答えであり、それはすべてのクライアントワークにおいて同じ気持ちでやっている、ということなのだと感じました。これから沖縄のクリエイティブがどう変化していくのか、引き続き注視していけたらと思っています。
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『GOTO-CHI CREATIVE!』、今回で6回、北は北海道から、南は沖縄までめぐってまいりました。全国47都道府県、まだまだ行けてない場所はたくさんあります。次はどこに行くのだろうか、私たちもいまから楽しみです。そのうち海外にも行っちゃったりして。
今回も最後までお読みいただき、ありがとうございます。 本日もすこやかな一日をお過ごしください。 iDIDメディア編集部でした!
※今回のインタビューは10月18日発売の『Web Designing 12月号』との連動企画です。Web Designingではサマリー版、iDIDメディアでは完全版をお読みいただけます。